2009년 4월 14일 화요일

徳島踊り

新聞記事
徳島新聞
1998年7月16日掲載
執筆者 石川文彦
盆以外にも踊り

呼び名統一の動き

 日露戦争時の祝勝踊り以来、盆以外に踊る傾向が強まった。

 大正三(一九一四)年の盆踊りは第一次世界大戦が起こり中止されたが、十一月に青島(チンタオ)陥落の祝賀踊りが行われ、四年には二度にわたる天皇即位 の奉祝踊りが、また五年には立太子式祝典奉祝踊りが開催された。このほか大きな橋や神社の落成、凱旋(がいせん)兵士歓迎といっては踊った。


「徳島踊」「阿波踊」と二つの呼び方が使われている大正3年4月1日付徳島毎日新聞

 こうして盆以外の踊りが多くなったためか、明治末には新聞に「阿波踊り」「徳島踊り」の名称が登場する。

 これまで本文中では便宜上「阿波踊」と書いてきたが、本来の名称は「阿波の盂蘭(うら)盆踊り」。その熱狂的で一種特別な踊りぶりから俗に狂気(きちがい)踊り」などとも呼ばれてきた。

 「阿波踊り」の名称が初めて登場するのは、明治四十二(一九〇九)年十一月八日付の大阪朝日新聞阿波付録。「阿波踊」の見出しで当時の様子や江戸時代の 踊りについて触れているが、県内の新聞同様、風俗、衛生に与える悪影響を指摘し、以前の良さが失われつつあると嘆いた上で「止めさせたくもあり、止めさせ たくも無し」で結んでいるのが面白い。

 ■2つを混同■

 またこれより先の、同年九月一日付徳島毎日新聞のコラム「青松白水」では、踊り方に改良を加えることなどの提言の中で「徳島踊り」の名称を使っている。

 大正期に入ると徳島毎日も「阿波踊り」の名称を使うようになる。三年四月には徳島鉄道延長線開通の行事として踊りが予定されていたが、皇太后の病状悪化 により中止となった。このことを伝える記事の中では「徳島踊」と「阿波踊」を混同して使っている。その後十一月の戦勝祝賀踊りを伝える記事では「徳島人士 の熱狂を表現する唯一の阿波踊りは…」となり、以後新聞では「徳島踊
」の表現は見掛けなくなる。「阿波の盆踊り」と一般にいわれていたため「の盆」を略した「阿波踊り」の方が言いやすかったのだろう。

 ■決定は昭和■

 徳島日日新報でも「阿波踊り」の名称が使われる。大正五年八月の和歌山県三井寺祭に「徳島の盆踊り男女」が招待されたことを伝える七月二日付見出しに「阿波踊りが紀州へ」と出ているほか、十一月の立太子式祝典奉祝踊りでも「阿波踊り」を使用している。

 ただ、全般的に見て本来の盆踊りの際には「阿波の盆踊り」ないし「盆踊り」が主として使われ、盆以外の踊りで「阿波踊り」という場合が多いようだ。

 「阿波踊り」の名称については昭和初年、徳島商工会議所(当時が徳島商業会議所)が踊りを観光客誘致に結び付けようとした際、風俗画家で郷土研究家でもあった林鼓浪(一八八七―一九六五)の提唱で使われるようになったとされている。
林自身、「名付けた」と話しているが、既に「阿波踊り」の名称は使われていた。ただ「阿波踊り」に統一しようと努力したのは確かだ。